momoyoukan’s diary

日記やエッセイらしいものをぼちぼちと

春と桜、4月の季節

snsをみていると、桜の写真がたくさん流れてくる。

4月であるから当然だろうが私の住む南の島ではそんなことはなく、桜なんぞとっくに咲いて散っている。

いわゆるヒカンザクラという早咲きの桜がこちらでは桜の花として認識されるものであり、本土ではまだ寒さの厳しい時期に一足早く拝むことができる。

それにしても、今年はまともに桜を見ていない。どこかの公園や民家の庭などにあるはずなのだが、いつの間にか咲いて散ってしまったらしい。

 

というのも、私にとってヒカンザクラは本土の桜に比べるとやや風流にかけるような気がして特別気にかけて愛でるようなものではないのだ。それゆえ、特に満開にでもならないような年では、道を歩いていても認識さえしないという始末であり、今年もそのような感じだった。

ヒカンザクラソメイヨシノなどに比べて色が濃く、散るときは花びらの付け根ごとポトッと落ちる。淡い景色の中で薄桃色が映えたり、花弁の一つ一つが風に乗り舞い踊ることもない。

強い日差しにすべての景色が色濃く映えるこの島にはお似合いの花ではあるが、この濃いピンク色を見るたびに、これから来る高温多湿の季節を連想せざるを得なくてなんだかげんなりしてしまう。

 

咲く時期にしても、この土地ではまだ春とは呼べないような寒さの中に開花する。一般的に、春は桜の季節、桜は春の花というようなイメージがあるが、私にとってそれは遠い世界の話なのである。

 

こういう季節観のズレというものは、桜に限らず年中あることなのだが、「春の桜」というものに私はずっと憧れていた。

憧れ続けてやっと本土の桜を見ることができたのは大学生のときだった。

これまでにも何かと本土に渡る機会はあったものの、4月という忙しい時期に足を運ぶことがなかったので、いま思い返せば奇跡的な旅だったと思う。

 

卒業論文のためのフィールドワークに赴いたのであったが、ついでに寄ってみようと少し有名な城跡に足を運ぶとそこに桜があったのだ。花見客でよく賑わっていた。

石垣を登って開けた場所にはたくさんの桜の木があり、きれいに咲いていたのをよく覚えている。

「桜ってほんとうに4月に咲くんだ」

どうやら桜が春の花であることは、お伽噺ではなかったらしい。

はじめて拝んだ本土の淡い桜に満足したが、残念なことにその頃の私は常につきまとう不安と浅い呼吸で、見える景色すべてにぼんやりと霞がかかっていた。とはいえ桜は美しかった。願わくば、次見るときにはもっと澄み切ったものであってほしい。

 

 

この記憶は今となっては好い思い出の一つとなっている。

ネットで桜の知らせを見るたびに現実とのギャップを感じないことはないが、当たり前すぎて気にもとめることのない差異だ。でも時々、あのときの思い出がふんわりとよみがえり、頭の中の記憶の引き出しが4月の桜が実在するものであると言ってくる。

 

つよい湿り気と日差しに晒されながら、今日もまた桜を受動喫煙している。

明日はどれほど暑くなるだろうか。

 

 

2024年4月19日

 

読了『残機1』

巡り合わせは舞台刀剣乱舞だった。

気高き本科「山姥切長義」を演じる梅津瑞樹さん(以下、ウメツさん)が文章を綴るお仕事もされていることを最近知り、彼の著作をさっそく買って読んでみた。

 

久々にカフェでゆっくり本を読むことができ、気分がいいので感想などを書いてみる。

店で飲むチャイはうまい。

 

そもそもはじめにウメツさんという一役者を見たときには、なんとも矜持の高そうなお綺麗なお顔の人という印象だった。気高き本科にふさわしいキャスティングだと感じたと同時に、顔の良さで人生を生きてきた人という大変失礼極まりない偏見も抱いたことは久しい。

 

しかし、この方が大学で文学を学び、その知識をもとに本も出していることを知って、どんな言葉を綴るのだろうかと興味がわいた。YouTubeでウメツさんの動画たちをみることで、その人間味の深さを垣間見、第一印象を改めるべきことがわかった。

 

インタビュー動画や個人チャンネルの動画を見ると、なんとも文学畑を感じさせるような言葉選びやセリフ回しに引き込まれる。日常の生活のなかで素でこのような言葉を紡ぐ人はなかなか見ないので新鮮味を覚える。

 

かくしてウメツさんのが手がけた御本『残機1』を拝読することになった。

この独特な響きのタイトルには意味が込められており、ネットで検索すると出てくるので気になる場合はそちらをどうぞ。どういうことだったかは私は忘れたので説明は省く。

 

『残機1』はこれまで雑誌で連載してきたエッセイと書き下ろしの短編小説が収録されている。

ページの大部分を占める随筆では、ウメツさんの語りの雰囲気そのまんまの彼らしい言葉が綴られている。

役者のお仕事のこと、部屋の本たちのことなど、彼の生活のなかで思い考えることが記されている。その表現の仕方はまるで、同じ世界をいきているが同時に存在する別レイヤーのことを話しているかのような、おもしろい錯覚を起こさせてくれる。

その日々の綴りの中にぽつぽつと少しだけ見せてくれる彼の苦難の記憶に、ちょっと励ましをもらったりする。これだけ舞台に引っ張りだこなのは、それ相応の努力を続けていることの表れだったのだなぁと、愚かにも私は今さら知るのであった。

 

 

22本の随筆が終わって、うしろには4本の短編がお出ましだ。

なんと、これまでの小難しい言葉のこねくり回しとは打って変わって、短編小説はまともに現代文学調なのだ。明治まもない人たちのような語り口調だったらどうしようかと、実はこっそり思っていたが大丈夫だった。

 

短編小説で一番印象深かったのは「ゲートボール大会」である。

隠居のじいさん達の話なのだが、じいさんどもを「じじい」と称しているところが、彼の思い切りの良さと若者らしさを感じる。数ページの短い話だが、じじいたちの小さな社会の変化の瞬間を目の当たりにすると同時に、その社会性の奥深さがわかる。深掘りすると嫌気がさしそうな話題だが、短編特有の尺の短さの中でさりげないおかしみと心地よさで収まっている。

 

 

 

ひととおり最後まで読み、おもしろかったの一言が思い浮かんだ。シンプルにおもしろかったのだ。

特にエッセイは共感できることもあればなんだかよくわからない世界だったりもするので、またじっくり読み返すだろう。

ウメツさんは、私の年齢からするとちょっとお兄さんであり、おおむね同じ世代にくくられるのだが、ちょっと先を行くお兄さんの大人びた生き方とものぐさな私生活が、若造の私にはクスッとおもしろく思えた。

彼がこの先10年、30年と生きるときの文章も読んでみたい。これからも文章のお仕事が続いていくよう祈る。

 

2024年4月13日